昭和41年12月09日 朝の御理解
心に喜びを頂くと、それは精進と教えを、本気で行ずるということ以外には無いと思うんですが、どうでしょうか。皆さん自分の心の中に、信心の喜びが感じられておるだろうか。信心のその喜びが感じられていないならば、教えを行じていない証拠です。昨夜の御理解もこのこれは、椛目の御信者さんだけのことじゃありますまいけれども、教祖の御教えを、ほんとにおかげを頂く為には、行ずる以外にはないということを、思い込んで居る信者がどれ程おるだろうかと。
覚えてはおる、例えていうならば、百何十カ条という御教えを、覚えては来たけれども、それを自分のものにして行くということがです、どれ程大切なことか、いやそれを大切にしていくということが、本当のおかげには以外にはないのだと思い込んでおる人、分かっている人が、どれだけあるだろうかという、その相済まんことですけども、その教えに対するそうした真剣な取り組みというものが為されていない。
三代金光様に、いわゆるおかげのコツというか、どうを言う様な心掛けにならして頂いたら、おかげを受けましょうかと、お伺いさせて頂い時、三代金光様が、教祖の御教えを守る他はありませんと仰った。これがコツだと、ね。それからでなからなければ、本当のおかげは生まれてこないんだと。お参りをそておる、それに対するところのおかげは頂いてもです、本当のおかげと云うのは、もうそのコツというならそれ以外にありません。ということをです思い込んでいる人。
思い込めたらです、やはりその教えを自分のものにして、行くことの精進しなければおれないのです。信心の喜びというのもやはりそうだと、どれほどかお手間かけしぞ菊の花、熊谷さんが頂かれたご理解だった。昨夜です、御祈念の後に八日ですから青年部会ございました。沢山集まって熱心にま、色々信心の共励を致しましたという。青年会でこの御造営のことにことについての、何か青年会としての御用を頂きたいというので、話し合いの上に月々二千円のづつ積み立てることに話が決まった。
あちらにしては大金です。そら勤めに出ておる人ならいいですけれども、出ないい人もある。けでも満場一致で話し合いが決まった。ところがその、それを聞かせて頂いている私どもの方の娘たち二人が、これは自分達どうしようかと思うた。収入もないのに、そいで二人で話し合ったんです。これはどうでもひとつお父さんにお願いして、それを頂かなきゃでけん。
ためには今迄の様な事では、出来んからとにかく今からお母さんには二階の御用だけしてもろうて、もう下いっぱいの御用は、愛子ちゃんあんたと二人でさして頂こうじゃないかと、そしてお父さんに百円づつ頂くことにしょうと。それはお下がりを頂くんだからおんなじようであるけれども、それは私達これからの信心なのだ。それを修行とさせてもらい、それを信心とさせて頂きゃ、そこに又神様の働きが又あるだろう、というふうに二人で話し合ったらしい。
もう炊事場の方は勿論、お洗濯一切を二人で引き受けてするからという相談を受けたのです。ね、ほいでそのちったその給料ち言えば僅か、一人三千円で、ま、あんた達は食べさせて頂いてから三千円だから、本当言うたらね、今の椛目の百円はね、千円がたあるばいちゅうた。というて高給取りじゃない。ね、でも千円づつもらう、そのくらい値打ちのあるお金なんだ。だからそれだけの御用はさしてもらわなきゃならん。今まで余分におかげ頂かにゃいけん。
というてまあ話して、そのことを神様にもお届けさせて頂いたことでございます。そしたら、神様から頂くこと、菊の花いっぱいこう咲いてるんですね。それがその花びらのひとつひとつに喜びが書いてある、次には苦が書いてある。菊の花というのは、喜び久しいとこういう。けども私一枚頂くのは喜びに苦労の苦が書いてある。喜苦、喜苦と書いてある、花びらのひとつひとつにこう書いてあるんですよ。
そして私は思うた。自分の心の中に頂く喜びというのは、教えを守る以外にないということと同時にです、やはりそれには苦労が伴わなければ、いわば身を削り 心を削りというが、修行を伴わなければ、ほんとにおかげが頂きたい、御造営費なら御造営費のおかげを頂きたいと、ただそれに私も百万のおかげを頂かせてくださいと願ってです、ならそれを実行できてない人が、椛目には流石にそういう気持ちになる人が、沢山ありました。お届けまでいたしました。
けどもその十分の一にもならん、出来んなりにそのままになっている人がまだ沢山あります。ですから百万円おかげ頂きたいというてから、今投書しとるわけですよね、ですから経理のほうでは、五百万円はお供えがあるもんと思うてから、計算しとるところが、どっこい実際に持っておる人じゃない、これからおかげ頂だいていこうというのであるから、だから神様がおかげ頂かせて下さったらですよ、おかげ頂こうそんな甘い考えでおかげ下さる筈がない。ね。
特別の修行もしなければならんと同時にです、やはりちっとその心も削らなければ、ね、好きなもんな食べてから、好きなもんな飲むでから、行きたい所にいってから、着たいもんな着てから、そしてからどうぞ私に百万円のお供えをさせて下さい、なるほどその願っておることはけなげであっても、これではおかげの頂ける筈はありません。私夕べ娘達の願いを聞いてから、それを思わせて頂いた。ね、例え日に百円づつでも頂かせて頂くでもです、ただではもらわん。
その代わりに、これこれの修行をさせて頂きますという、その苦であり、その修行でありが伴うてこそ初めて喜び、ね、喜久の花のおかげが頂けるんだということです。だからこそそのことを通して、徳を受けるのです。ほんとにあの御造営の時だったと、私が力を受けたというならば、お徳を受けたというならば、あん時だっただろうと言う様なおかげを頂くためにも、ね、今こそ身を削り、心を削りしなければならんときではなかろうか。ね、可笑しいじゃないですか。
おかげをい頂きたいと神様にお届けしておいて、ね、おかげを頂けんなんて。お願いしとるから、神様がお受け下さるじゃろう、そしたらおかげ頂こう可笑しいじゃないですか、ね、そう言う様なひとつの念願、そういう願いにいわば燃えた。その代わ苦労もいとわんという苦労が、いわば修行がなされなければ、ね、ほんとに椛目のこれだけの信者がそんなことで、ないじゃありません。ほんとにそのことのために、本気で修行しておる人はいくらもありますけれども。
本気でそのことに一丸になってです、おかげ頂きゃ頂けん事はないと思うですけれども、おかげ頂けないとこを見ると、まだその気になっていない。椛目のことじゃけん何とかなると、いうくらいな甘い考えじゃなかろうか。おかげを頂けるはずがない。今日私は心の中に頂かせてもらう、いわゆる菊の花のような喜びというのは、ほんとに教えを本気で自分のものにして行こうとする願いと、同時にそれに対するところの修行。
おかげ頂きたい、それこそ三杯のご飯は二杯にしてでも、三度の食事は二度にしてでも、せめてそれだけなりとも、という願いの心、それはそれだけの事なんです、ね。言うならばお茶碗いっぱいのお米なら、お米だけが献納出来るだけの事でございますけれども、そういう願いがです、神様を無限の働きにお導きする、お導きすると言うと可笑しいですけれども、無限のおかげの頂けれる道に出ることが出来るのです。
そのことでは僅かなこと、ね、日にタバコを三本辛抱する、いやタバコを一日例えば止めさせて頂く。それは何十円かづつではございましょうけれどもです、その辛抱こそがです、身に徳を受ける修行にまでなってくるのです。ね、今日のご理解を頂いてですね、喜びと苦の字がやはり喜苦ということになります。どういう意味での菊の花をです、今こそ椛目全体の人達がみがく心になったら、おかげ頂けると私は思います。どうぞひとつ自分の心の上に、果たしてどれ程教えを行ずること以外にない。
おかげ頂く本当ののおかげ頂くためには、教祖のみ教えを自分のものにする以外にない、果たして自分に教祖の御教えが、どれほど自分の信心の血に肉になっておるか、なっていないならば早速、ね、早速私は本気で行にうつさなければいけん。この方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞと仰る。家業に打ち込むということと思うておったけれど、そうではない。なるほど家業に打ち込むこともそうですけれども、その家業を通して生まれてくるところの火の行、水の行にも匹敵するような事柄があるということ。
そのことをです、私は本当に修行として受けていくことが、家業の行なんです。その行が私は言うならば、大海のような信心だとそういうふうに思う。ただ鯨の住むようなおかげを頂くためにはです、ほんとに家業の行が徹底してでけなければいけん。家業の行そのものがおろそかにする、その家業の行を通して生まれてくるところの、苦難はそこから逃れようとする。これではいつまでたっても、どんなに大きな願いを立ててもです、その願いが成就するはずがない。
どうぞ。